[社食シリーズ其の2話] アナゴの天ぷら

男は戻ってきた。
幾たびとなく破れ、数限りない辛酸を嘗されたにも関わらずだ。
その姿は疲れた老兵のようであったが、正面から男の目を見た者は、一生その双眸を忘れることはないだろう。
地獄の大王も思わず目を背けてしまうほどの鋭い眼差しだ。
その目で男は静かにショーウィンドウを睥睨した。
「今日は天ぷら定食が食いてぇ~」
どこからともなく男にささやきかける声がする。

いやダメだ。何度となく、この悪魔の囁きのために酷い目にあってる。
だが男の精神は、この囁きに反応して、既に時空を越えていた。
眼下に広がっていた日常は、一瞬の揺らめきをみせ、次の瞬間には光速を越え、 足下には、さんざめく銀河が広がっていた。
そう、既になじみの場所だ・・・

ほくっと箸でつまむだけで、ほぐれてしまうほど柔らかなアナゴ、そう、天ぷらといえばアナゴだ。
天つゆにたっぷりと浸して、つゆの中の大根下ろしを周りから集めるようにアナゴの上に載せ、 そのまま一気にほおばる。
かりっ!
とした衣の歯触りの後、
ほくっ!
としたアナゴを舌で味わう。
つゆと大根が口いっぱいに広がる、その一刹那、炊き立てのご飯を掻き込み、咀嚼し、嚥下する。
考えただけで既に男の顔には嗤いが広がっていた。僅か痙攣したように引きつっただけの嗤いだが。

ほんの瞬きをしただけの時間だ。時空を越え男は現実へと戻ってきた。
天ぷら定食が俺を呼んでいる。ご丁寧にも「あなご」とか「たらのめ」とか、旗を立ててだ。

男「すみません。てんぷら定食くださぁ~い」

心も弾むってもんだ。

しかし、ここで男は気が付くべきであった。
となりに「アナゴちらし鮨」があったのを。
いや男は1度ならずその「アナゴちらし鮨」は目に入っていたはずだが、 そのとき男の精神は既に時空を越えていた。

しずかに席で待つ。
これも馴染みの感覚だ。
射精する直前の、精神を解き放つ一瞬にも似た高揚感だ。
だが、ここで男は少し不安になった。
まわりを見渡しても、誰一人として「天ぷら定食」は食っていない。
だが不安を振り払うべく「そうだ、きっとあんまり旨いんで、 一度売り切れになったんだけど、運良く俺のところでまた売り始めたんだろう  そうだ そうに違いない」

女「おまたせしましたぁ~ 天ぷら定食でぇ~す」

男「うっ 旨そうだ!」

まずはアナゴだ。
こう、はしで ほくっ ・・・
そう、はしで ほくっ ・・・
きっ 切れねぇ~

やはりな・・・
そうだと思ったよ・・・
アナゴ天って言うのはなぁ  アナゴの蒲焼きを天ぷらにしたやつじゃないんだよ! I○Mスエ○ロ邸。
ちくしょぉ~め。

「シェフをよんでもらおうか」

っと、心の中で呟いた。
これも馴染みの独り言だ。
そうだ 「アナゴちらし鮨」が隣にあったのを今になって思い出したぞ。
「アナゴちらし鮨」のアナゴで天ぷら作るんじゃねぇ~
くそっ!

そして、歯に挟まるアナゴの小骨に悪態をつきながら食った。
一粒のご飯も残さずにだ。育ちの良さがうかがえるってもんだ。
もう一言わせてもらおう。

「天ぷら定食にはなぁ~」
「てんぷら定食には、吸い物じゃなくて、みそ汁なんだよぉ~」

これも、悲しい独り言である。

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